2019.1

2019.1.5

<加藤周一の「雑種文化論」>

日本の問題は西洋化を目標にしたところで解決しないと考えた。西洋化は日本の深いところに入ったが、英仏の文化が「純粋種」なのに対して日本文化は根本が伝統と外来の双方から養われてきた「雑種」。伝統と外来のどちらかに徹しようとすると失敗する歴史を持っている。

 

<加藤周一の雑種文化論>

「日本の文化問題は、日本の文化が雑種的であるという事実をみとめることに始まり、その事実に積極的な意味を見つけることで終わる」

 

<加藤周一の雑種文化論>

西洋からの船便での帰途、アジアの都市などを眺めて次のような感想を持つ。「シンガポールの西洋式文物は西洋人のために万事マルセーユと同じ寸法でできているが、神戸では日本人の寸法にあわせてある」

 

<靴に合わせるか足にあわせるか>

かつての名門予備校・駿台予備校御茶ノ水校舎には鈴木長十という名物英語講師がいた。彼には「貧乏人は靴に足を合わせる。私は足に靴を合わせる」という名言(?)がある。この言葉を知らない人は当時モグリと言われた。神戸、横浜は自分のサイズに外国を合わせた。

 

<加藤周一著『雑種文化ー日本の小さな希望ー』①>

「私は、生活ー衣食住ーの面でも日本人は「雑種」であって、それを洗練させていくのが今後の課題と思っている。例えば、食事で言えば、勿論、和食は主に食べているが洋食も食べる、それもフランス料理だけでなくイタリア料理やロシア料理も食べる

 

<加藤周一著『雑種文化ー日本の小さな希望ー』②>

「飲み物で言えば、日本酒は当然としてビール、ワインは勿論、ウオッカとかテキーラもたまには飲んでいる。日本茶は当然としてコーヒーは根づいているし紅茶やウーロン茶も飲んでいる。こういう国民は、世界広しと言えど日本人をおいてないだろう」

 

<加藤周一著『雑種文化ー日本の小さな希望ー』③>

ドイツ文化は、西洋文化の中では「雑種文化」だ、というのだ。例えば、ゲーテ(ドイツ)とラシーヌ(フランス)を比較してみよ、と言う。ラシーヌは、ギリシャ・ローマ・フランスのいわゆるラテン文化の純粋系ある。

 

<加藤周一著『雑種文化ー日本の小さな希望ー』④>

対してゲーテは、「イタリアの文芸復興、フランスの古典主義、英国の浪漫主義によって自己の世界を養ったばかりでなく、晩年には近東からさえもうけとることができるものをうけとったのである」

 

<加藤周一著『雑種文化ー日本の小さな希望ー』⑤>

これはカントとルソー、ハイネとボードレール、トマス・マンとヴァレリーを比較しても言えると言う。

 

<加藤周一著『雑種文化ー日本の小さな希望ー』⑥>

音楽の面でも「対位法と和声的音楽を発明したのはドイツ人ではなかった。しかしバッハからワーグナーにいたるドイツ音楽の世界より豊かな音楽の王国はなかった」

 

2019.1.6

<加藤周一>

大学時代、同級生が「加藤周一はうちのオヤジが東大医学部で同級生だったよ」といっていた。半分自慢だったのかも知れないがなんだか身近な存在になった。そういえばうちのオヤジも(他大学医学部だったが)彼とは歳だけは近かった。(「『羊の歌』ーわが回想」にあるように未年)